「書は人なり」なら「家も人なり」だ。


地域の一隅を照らす工務店を応援したい佐塚です。

昨日はAIにイラストやら何やら書かせてみました
今のところすぐには使えない
という結論になりました。

精度や著作権などの問題も
あって使えない
という結論なのですが
今回は、それ以前に
やっぱりAIの書いたものは
使えねえよな
という背景になりそうなお話です。

今、ちょっと訳あって
中国の書画について
取り組んでいます。

王羲之の「蘭亭序」。書道史上最も有名な作品、だそうです。

学んでみると
これが大変面白い。

「書は人なり」という
言葉がありますね。

僕はこれ、当初は
書いた文字は性格が出ますよ
ぐらいのライトな
感じかと思っていたら

「書はその人の如し(書如其人)」
という、中国清代の
劉熙載(りゅうきさい)
という、およそ何でも
知っているような学者が
著書に残した言葉で

書は書かれたものだけでなく
その人の人格丸ごとで
評価されるものだ
ということなんですね。

かつては中国では
書がいくら上手でも
書いた人がダメなやつだったら
その書自体を評価しない
ということが長く
続いていたそうです。

「書は人なり」
というのはそのぐらい
重い言葉だった。

高村光太郎が「書について」
の中で

書を究めるという事は
造型意識を養うことであり、
この世の造型美に
眼を開くことである。
書が真に分かれば、
絵画も彫刻も建築も
分かる筈であり、
文章の構成、生活の機構にも
おのずから通じて
来ねばならない。

と述べています。

書が分かれば
建築が分かるはずだと。

となると、建築が分かれば
書も分かるのだろうか?

小難しい話になってきたので
軟着陸しましょう。

『美味しんぼ』11巻
「魚の醍醐味」で
フグの白子に代わる
旨いもの勝負がありました。

山岡士郎がタラの白子を
持ってきたことに対し
海原雄山は一蹴。

モーツァルトの
レクイエムの後半は
死後、弟子が作った。
まさに神品としか
言いようのない
前半に比べると
後半は凡庸そのものだ。
(略)
似ているからといって
弟子の曲を聞かせて
何が語れよう…
むしろ、モーツァルトの作品と
同じ芸術的深味に達した、
絵画なり文学なりで語らせた方が、
正鵠を射ることが容易かもしれぬ。

そう、つまりこういうことですね。

え、どういうことか全然わかんない?

無理やりまとめます。

作品には形質的外見
だけでなく人格が投影される。

そういう視点でいいものを
見ると本物を見る目が養われる。

建築の美を追求するのにも
建築ばかり追わずに
書や絵画にあたる方が
開眼できるかもしれない。
(たまには美術館にも行こう!
眺めるだけじゃなく
背景の人を意識しながら)

つまり
作った建築には
(それ以外のものにも)
作風とかそういうレベルでなく
作った人の人格が
投影されるってこと。

(だからAIから出てきたものは
ただの形質であって作品ではない)

みんな命懸けで
仕事をしていると思うけど
ただ形を完成させるんじゃなく
自分自身が投影される
って考えたら
身が引き締まりますね。

「書は人なり」
であるなら
「家は人なり」
でもあるはずだ!

以上!