地域の一隅を照らす工務店を応援したい佐塚です。
さて、この「地域の一隅を照らす」というのは、ご存知の方も多いでしょうけれど、天台宗でよく使われる言葉です。
けれど天台宗の中でも色々議論があるようです。本当に最澄が残した言葉なのか、あるいは「照干一隅」なのか「照千一隅」なのか、など。
僕は天台宗の宗徒でもないし、皆さんにそれを良いとか悪いとかいう立場でもなく、単にその言葉(の、一部だったり、曲解かもしれませんが)がいいと思ったので使わせてもらっているわけですが、それでも敬意を評して、どういうことかは説明しておかないとな、と思う次第です。
くだんの文章は、「天台法華宗年分学生式」なる式を最澄がしたためた、その前書きにあるものだそうです。天台宗は「一隅を照らす運動」というのを行っています。でも、 別にその運動、というわけではありません。
ここからは、『最澄とその門流』(佐伯有清 著/吉川弘文館)の受け売りですが、「照千一隅」とは、「千里を照らすことになるであろうところの一隅を守る者」の意であり、「一隅」とは、比叡山中であったに違いない、と。
それだと、比叡山で頑張ったら千里を照らすことになるであろう国の宝が生まれる、ということになるのかな?(違ったらごめんなさいね)
僕は、町の工務店ネットの全国総会で、「地域の一隅を守り、千里を照らす」工務店になろう、と呼びかけましたが、それはもちろん、比叡山を守る、ということではありません。ここでいう地域は、それぞれの工務店が根を張り日々活動している地域に他なりませんし、その活動の先に、遠くの見通しが見えてくる、という意味で使いました。
もうちょっと砕けていうと、小さいことができないヤツは、大きなこともできないよ、ということでもあります。いや、もっと言えば、地域を照らそう、と思えば、大も小もないはずなんです。
そりゃ、目立たない仕事とか、儲からない仕事とか、色々ありますけど、そういうことをちゃんとこなしている方々は、やっぱりちゃんと魅力に映ります。
でも、我が国は特定の宗教に由来する言葉に必要以上に敏感だからなあ…。
キャッチフレーズは変えた方がいいかなあ、なんてちょっと揺らいでいます。
でも気持ちは変わらず、地域で、地域のために活動している工務店を応援したい!