今日は文化の日。
(文化の日、というといつもこのネタ、のような気もしますが)
一般的な「文化住宅」だと、大正時代から昭和にかけての和洋折衷の家、のようですが、関西の人に「文化住宅」と言うと、昭和の高度経済成長期に大量に建てられた、木造2階建てアパートを指すようです。
(以前、関西の人と話していて、なんか話がすれ違うな〜、と思ったらそういうことだった)
なぜこれが「文化住宅」と呼ばれたかといえば、当時まだ少なかった「便所と台所が家の中にある」こと自体が、とてつもなく文化的で、衛生的で、画期的な近代化(文明開化)だったから、だそうです。
(トイレとキッチン、ではなく、便所と台所、である)
共同便所の順番待ちをしなくていい。朝起きて、長屋の共同の水場で顔を洗う代わりに、自分専用の流し台で顔を洗い、飯が作れる。
でも、それって本当に「文化」だったんでしょうか。
それとも、単なる「便利(設備)」だったんでしょうか。
台所と便所が各部屋についたことで、暮らしは衛生的になり、プライバシーも手に入ったかもしれませんが、その引き換えに、長屋の井戸端で交わされていた他愛のない会話や、隣近所で醤油を貸し借りするような、ある種の「関係性の文化」は消えてしまったはず。
それが良いのか悪いのか?
まあ、僕だって、家のトイレが共同だと嫌だなあ、と思いますから、良かったんだろうけど…
関西の文化住宅は、文化どころか、今は「風呂なしも多い古いアパート」になってしまっているのに、文化住宅、と呼ばれているのは、皮肉というか嫌味というか、何ともはや、です。
今は、住宅(の少なくとも販売まわり)では、文化、という言葉はあまり使われませんが、「タイパ」とか「コスパ」とかが、代わりの似たような言葉になっているかな…なんて気がします。
窓を一切開けず、外の風や光を「空調負荷」というノイズとして遮断し、四角いハコの中で機械に生かされているような暮らしを、カタカナやアルファベットの言葉を並べて「これがこれからの住まいです」と胸を張る。
便利な設備を詰め込むことと、その土地の風土に寄り添い、街並みと繋がりながら住まい手が豊かに暮らすことは、まるっきり違う道だと思うけど。
関西の文化住宅が、やがて時代の波に洗われて「昭和の古いアパート」の代名詞になっていったように、「最先端」の家も、数十年後にはただの「あの頃流行った、設備過剰で閉ざされたハコ」として見られているかもしれない。
でも一方で、共同便所がほぼなくなったことと同じように、それが当たり前になって、
以前は窓とか開けてたよね〜、窓が開く住宅なんて嫌だよね〜、庭に木があるなんて信じられないよね〜、なんてことにも…なるかもしれない。

でも、昔に戻れ、と言いたい訳ではないです。むしろ戻りたくない。
「文化の日」は、かつての「明治節」、明治天皇の誕生日です。
教育とか軍国とか、昔に戻したいっぽい政治家や支持者も、しばしば目にします。
現代のテクノロジーによって暖かくて安全な暮らしが手に入ったことは、素直にありがたい進歩です。
ただ、そうやって設備スペックばかりを競い合っている現代の住まいを見ていると、ベタだけど、文化住宅というよりは「文明住宅」だなあ〜、と思わずにはいられません。
僕だって文明は大好物です。新しい道具も大好きだし。
でも、家で本当に重視したい、手放したくないものって、やっぱり文明よりも「文化」なんだよなあ。
「文明」自慢に溢れる家づくりの中で、ちゃんと「文化」が伝えられるといいな。

