餃子のような家

手作り餃子、といっても豚を育てるところからやっているケースはまずありません。でも豚の仕入れ先を吟味したり、皮を自分で売ったりならできますね。それを、家ではどこまでやればいいのでしょう。


日曜恒例メシの話

浜松市民は一般の日本人に比べて
10倍ぐらいの餃子を食べます(当社比)
僕もその御多分に洩れず
餃子をたくさん食べます。

お店で食べることもあれば
焼いたものを持ち帰ることもあり
冷凍餃子を買ったり
生餃子を持ち帰ったり

そしてたまに自分で包みます。

これは「手作り餃子」
って呼んでいいのかな?

手で包みましたけど
皮は市販品
実は餡もお店で売っていたもの

手包み餃子、とは呼んでいいんだろうな。

餡を作ったこともありますし
皮を打ったこともあります。

ただ、最近はこの市販品の組み合わせが
美味しさと手間と満足感のバランスが良い。

「手作り」ってどこまでをいうのか?

小麦粉から皮を作れば手作り?
小麦から小麦粉を作らないとだめ?

餡は挽肉と野菜を混ぜれば手作り?
肉を自分で挽かないとだめ?
肉を自分で落とすところから?
野菜も自家製…?

などと、遡るとキリがありません。

名店というか人気のお店だと

皮は自分で打つけど小麦粉は外部から買う
餡は自家配合だけど材料は指定の業者から買う

こんなところかと思います。

セントラルキッチン的に
工場で作った冷凍餃子を焼く
チェーン店もあります。

かつて鄧小平が

黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ

といったように

手作り餃子でも
冷凍餃子でも
美味しい餃子が良い餃子だ

(なんか違うか…)

という、餃子の話を
そのまんま、家に置き換えてみたら
どうでしょうね〜?

どこまで手作りなのか
どこまでが流通品なのか

流通品を全く使わないということは
不可能ですし

しかし、流通品の使い方・使う割合で
餃子(家)の全体像はずいぶん変わります。

結局のところ
美味ければいいじゃない
という気もしますが

値段、手間、見た目
手作り、ということへの共感
(あるいは幻想)

そのバランスの中で
どの辺を目指すのか
今の自分たちのものは
どの辺にいるのか

これ、意外と正しく認識できていないような…

あ、焼く技術もあったなあ…