セカンドオピニオンという言葉があります。
医療の場面でよく使われる「もう一度、別の医師に診てもらう」というやつです。
主治医が出した診断に不安を感じた患者が、別の専門家に確認を取る。
主治医の診断が変わるかどうかよりも、「別の人に聞いた」という事実が、患者に安心を与えることも多い。
これ、工務店でも同じことが起きていると思うんですけど、どうでしょう。
お客さんの話じゃなくて、社長、あなた自身の話。
工務店の社長というのは、現場のことは血の滲むほど知っています。
でも、外から自分の会社がどう見えているかは、なかなかわからない。
わからないのは、別に怠慢じゃないんです。
近すぎると見えなくなるのは、目と鼻の先のものを見ようとするのと同じことです。もっというと、自分の顔だって、鏡がないと見えないし。
自分の会社のことを「当たり前」だと思っているから、その「当たり前」のどこが外からは驚きで、どこが当たり前すぎて伝わっていないか、って、あんまり考えないですよね。
何がすごいか、何がダメなのか。
仮に、気づいていたとしても、「これ、わざわざ言うほどのことかな?」という遠慮が働いて、外に出てこないことが多い。
そこに、第三者がいる意味があります。
クライアントの工務店さんと話をしていると「これが普通かと思ってた」なんて話がよく出ます。
竣工後のお付き合いの仕方とか、材料への向き合い方とか、設計のプロセスとか。
自分が気になることだったら、「みんなどうしてるの?」というアンテナを張って情報収集するけれど、「当たり前」と思っていることは、特に手をつけません。
でも、それがすごかったりする。もちろん、すごくないことの方が多いけど、たまに、すごいことがあるのです。
見つけようと思っても、前述の理由で見つからない。ので、やっぱり第三者に見つけてもらうことになる。
もう一つあります。
第三者の言葉は、当事者の言葉より信用される、ということです。
(根拠の有無に関わらず)
社長が「うちの会社は、お客さんのことを本当に大事にしています」と言っても、そりゃそう言うよな、になりますよね。
でも、OBのお客さんが「あの会社、本当に誠実なんだよ」と言ったら、それは信じてもらえる。
言っている内容が同じでも、誰が言っているかで、受け取られ方はまるで違うのです。
僕がいつも酒浸り、と自分で言っても嘘に聞こえるでしょうけど、誰かが「あいつは酒浸りだ」と言うと、本当に聞こえる。
広告よりクチコミが強い、というのは、この構造から来ています。第三者性が、信頼の担保になっているわけです。
ただ、第三者なら誰でもいいかというと、そんなことはありません。
「コンサルタント」に「もっと利益率を上げろ」と言い続けられて、気づいたらあんな風になってた(どんな風かは想像にお任せします)、なんてのは、笑い話にもならない。
外側にいる、ということと、その業界の…というより、その工務店の文脈を理解している、ということは、別の話です。
中にいるから見えないことがある。でも、外にいると、業界の常識が通じない。
そのどちらでもない、宙ぶらりんな位置。

工務店を長く見てきたけど、工務店ではない。
住まいへの哲学は共鳴するけど、設計者でもない。
会社のことは知っているけど、社員じゃない。
という、中途半端さが、価値になるのです。
言い過ぎかもしれないけど、その「中途半端さ」が、なるべく客観的に見ることを助けてくれているのかもしれない、という感覚はあります。
かくいう僕自身は、自分のことは、やはりよく見えないのかもしれません。
カタリスト業界のなかでどういうポジションなのか。
あ、カタリスト業界なんてないから、常にナンバー1か!
まあ、遠慮なくって、第三者的で、っていうと…AIがライバルか?
でもアイツら、忖度するし、文脈忘れるしなあ…そんなのに負けたくないなあ。
というわけで、一般論も大切だけど、個々のクライアントの文脈を理解する、あるいは一緒に作る、というのが大事だな〜。
そのためにも、これからも中途半端に、いきます。
