塗りつぶしちゃうか、余白を残すか。

昨日17日、京都の祇園祭の
前祭・山鉾巡行が行われました。

昨年も実施されたものの
色々制約付きで
コロナ禍前の形にようやく戻ったそうです。

娘が以前京都におりまして
そのころは度々京都に行きました。

京都に行くと何だか
「日本の心」みたいなものを
感じちゃうわけで…

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地域をよくする工務店を
応援するネットワークの
佐塚です。

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だから、というわけじゃないですが
少し前から書画の勉強をしています。

書画には「余白」と「間」が
決定的に重要だと言われています。

日本の水墨画もそうですね。
国宝・雪舟の「破墨山水図」

墨が重ねられているところもあれば
薄いところもあり
何ものっていないところも多い。

その余白は、物質としてはただの紙ですが
そこにさらなる風景を想像させてくれます。

こちらは京都・龍安寺の石庭。
10年ぐらい前の写真ですが
多分変わってないはずです。

ある意味ほとんど「余白」です。

その余白に我々は豊かな庭を
見てしまうわけですね。

そして、石の配置に「間」を
感じます。

だからって、自分家の庭に
同じ石を置いたところで
「間」はできません。

「間」って本当に難しいんだな…

かつては日本の建築も
書画と同様に「余白」と「間」が
大切にされてきたはずです。

温熱環境は快適ではない
建物であっても
立ち去りがたい気持ちになることがあります。

おそらくそこには
適度な余白と間があるのでしょう。

西洋の絵画ではキャンバスは
絵の具で塗り潰します。

キャンバスが見えていたら
塗り損じ、失敗作に見えてしまいます。

近年の建築は西洋絵画のように
びっちり塗りつぶされている
ような感じがしませんか?

昔のように建具が曖昧だったりしないので
外だか内だかわからないような空間は
かなり少なくなりました。

建築で「余白」を語る人は
「多目的スペース」のことを言ったりしますが
それも違うんじゃないかなあ?

すでに「多目的スペース」という
絵の具で塗ってしまってるじゃないか…

なんて思っていたら
建築家の竹原義二さんが
書かれたものがありました。

フォーラムに向けて005
建築・まちづくり情報

ちょっと難しいけど
まさに我が意をえたり。

「余白」と「間」のある
日本家屋で育ってきた層には
そういう記憶が残っています。

一方で、これから家を建てる
若い層にとって
どれだけこの考えが通じるのか。

余白などというものは
意味がわからない
コストパフォーマンスが悪い

と断じられてしまうのでは
なんて思ったりもします。

しっかり塗りつぶしてしまう方が
説明は簡単ではありますが

「アーキテクトビルダー」を
自認する人、目指す人は
ぜひ「余白」を忘れずに。

そうそう、龍安寺には
こんなつくばいもありますね。

「吾唯足知」
足るを知る。

折に触れて思い返したい言葉です。