最近また
新型コロナウイルスの
新しいワクチンができたんだとか
コロナ禍中に
コロナワクチンができた時
有効性が90%を超える
と報じられていて
これを多くの人は
ワクチンを打てば
10人に9人は発症しない
と思ったんじゃないでしょうか。
しかし、実際のところは
被験でワクチンを打った方が
1000人に10人感染したとして
これに対してワクチンを
打っていない被験グループが
1000人中100人感染した場合
打っていない100人に対して
打った方は10人
つまり90%は抑えられた!
ので有効率90%
という理論
言い換えると
1000人中990人は非感染と
1000人中900人は非感染の差
つまり感染者の量の差が90%
ということで
90%感染しない
ということではないけど
勘違いしてた人、多かった
これはこれで
エビデンスなんでしょうけど
理解する側が
正しく理解してないと
どうしようもねえな〜
なんでこんなことを
書いているかというと
『はじめての統計的因果推論』
(林岳彦・著)
という本に
エビデンスは棍棒ではない
という章があったから。
この言葉、面白いな〜と思ったら
ネット上ではすでに
著者さんらによって使われていて
そちらの表現を借りると
実際に、「エビデンスの不在」が「問題そのものの不在」として社会や制度の中で認識されることにより、個人の抱えるリアルな問題があたかも存在しないものとみなされてしまう状況がしばしば生じている。また、”科学的エビデンス”を巡る社会的コンセンサスが、個人の抱えるリアルな問題意識を不当な形で社会的・制度的に「上書き」してしまっている状況もある。
より「エビデンスは棍棒ではない3:「エビデンスと社会とわたし」とその”隙間”を考える」開催告知|社会対話・協働推進オフィス2023年2月20日(月)13:30~開催。科学的エビデンスと「わたし」のありうべき位置づけとは?「エビデンスと社会とわたし」とその”隙間”の存在、それに対する専門家や社会の「説明責任と応答責任」のありうべき姿についての認識と議論を深めます...
これは決して
エビデンスを軽視して
個人の問題だけに目を向けよう
という話ではないし
統計学上の話なので
あんまり統計とか関係ない
我々(というか僕)にとっては
間違った受け止め方
というより
言葉だけいいように捉える
だけかもしれませんが…
エビデンスが常に
正しいとは限らないし
エビデンス以上に
重要なものが相手にあるかもしれない
そう、エビデンスは大事だけど
判断材料の一つでしかない
幸いにして身の回りに
エビデンスで殴ってくる人は
あんまりいませんが
逆に僕がエビデンスで
殴り出すことがあるかもしれません。
そんな時は
エビデンスで殴られた!
と、止めてくださいね〜