『幕の内弁当の美学』から

幕の内弁当って、とかく特徴がないことの比喩に使われるけど、とんでもない! 幕の内弁当は、住宅の、機能を超えた美につながる、そんなお話。


日曜恒例メシの話

先日、新横浜から新幹線に乗りました。

お供は崎陽軒のシウマイ弁当。

これについてめんどくさい話をしよう、と思ってたら、なんと、『週刊SPA!』の最新号、久住昌之さんの「孤独のファイナル弁当」が、まさに崎陽軒のシウマイ弁当の話だった…ので、シウマイ弁当の話はそちらに譲ろう。

でも、「シウマイ弁当」という割に、純粋にシウマイの量が少ないなあ、とは思う。

いやいや、もしこれが全部シウマイで埋め尽くされていたら?

まあ、それでも食うし飲むけれど、ちょっとつまらないかもしれません。

よく、個性がないことを揶揄して「幕の内弁当」と言ったりします。

シウマイ弁当は、実のところ、シウマイ以外は完全に幕の内弁当状態です。

シウマイも、一個か二個なら幕の内陣営に入ってしまいそうな感じだけど、かろうじて五個のシウマイで、シウマイ弁当としての自我を確立しています。

まあ、これが「幕の内弁当」って名前で売ってたら、買わない気はしちゃうけど…

ところが。

工業デザイナーの榮久庵憲司さんの著書に『幕の内弁当の美学』があります。

第一章の冒頭からすごい。

幕の内弁当は美しいことを身上としている。

一行目がこれ。
ちなみにこの項の見出しは「美は機能なり」

使いやすいもの、便利なもの、無駄のないもの、合理的なもの、こうした効果は、食べものでいえば栄養価を云々するレベルである。

幕の内弁当に栄養がないわけではないが、栄養という機能は叶えた上で、美を実現することが、幕の内弁当だ、というのです。

栄養価云々、使いやすさ、便利さ、無駄のなさ、こういった効用は、たいへん説明しやすい。美は、説明できない。

これ、幕の内弁当じゃなくて、住宅にそのまま当てめても通用しますね〜。

今、多くの住宅の広告やwebサイトは、使いやすさ、便利さ、無駄のなさ、といった効用にフォーカスしています。栄養価云々、は、性能云々、と置き換えてよかろう。

昨日の側面での合理性を叶えたうえで、これを論外となし、美は機能なりの目標を掲げていかなければ、美に迫れない。

論外となす!

いや〜、なかなかそこらへんを論外となす! って言い切れないな〜、と思う反面、今、割と受注をしている工務店は、ある意味、論外となす、というところも多い気もします。
(一方で、お客さんの要望をなんでも叶えます、ってところも好調かもしれない)

みたての心、田の字の抽象、など、これ住宅の話なんじゃないの? という言説が続きます。

実際、この本は住宅のことにも触れています。

「間」と「部屋」、茶の間の幕の内性、押し入れという収納の幕の内性。

空間の相互融合と、その集約的利用、重曹させて融通無碍に使いこなす術

と、いうふうに読み進めていくと、「幕の内弁当」を、特徴がないとか、器用貧乏みたいに揶揄することが、いかに馬鹿げたことだったのかがわかります。

特徴がないのではなく、全てに神が宿る。

住宅でも、そこまで言えたらすごい。

これまでずっと、何かで特徴を、とにかく尖れ、と言ってきたし、それはこれからも変わりません。

美しくなく、美味しくもない幕の内弁当ならいらない。

そう考えると、やっぱり目指すのは、「シウマイ弁当的幕の内弁当」なのかもしれません。

全体は幕の内として成立している。
そのうえで、ひとつだけ、どうしても譲らない「シウマイ」がある。

設計なのか、素材なのか、温熱なのか、施工精度なのか。
何をシウマイにするか。

流行り廃りではない自社のシウマイを、美しく、美味しく、つくろうではありませんか。